負け犬、勝ち犬を夢見る

負け犬が勝ち組にるためのライフハック

止まらない専門家のコモディティ化の恐ろしさを解説する。

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世知辛い世の中になった。

 

今から30年前までくらいは、将来お金を稼ぎたかったらどうすればいいかということが明らかにされていた。レールが敷かれていた。

なるべく大きな会社に入り、そしてその中で仕事ができたり上司に気に入られることで社内の要職につく。

どの会社に務めているか、会社での肩書は何なのかということが世の中で重視され

評価の対象になった。

 

しかし、我々大学生がこれから先40年間仕事をしていくうえでこのようなレールに乗ったとしてもおそらく途中でレールが途切れる。

本当に生きにくい世の中になったものだ。

 

 

僕は、大学1年まで、親世代の頃の理想の生き方を刷り込まれてきた。

いい大学を出て、いい会社に入り出世を目指すようなやつだ。

 

しかし時代は変わってしまった。

産業の進化のスピードは恐ろしいほど加速している。

人口も30年前から20億人も増えた。(現在70億人)

グローバル化で僕たちは世界市場で戦わなければいけなくなった。

AIが着々に僕達の仕事を奪っていく。

 

正直、僕らは世界的に見て富みすぎている。

このことは、日本の資産であるとともに、僕ら若い世代には負債だ。

僕らは、とりあえずまあまあの大学に入ったら遊び呆ける。

このことは、日本の資産があるからできることだが、

そうやって、僕達が遊び呆けている間、将来のライバルたちは牙を研いている。

 

カナダに来て思ったことがある。

僕は、馬鹿だ。あまりにも無知すぎる。

ちゃんと勉強している人間と話すとあまりに知力差がありすぎて恥ずかしくて一言も話せなくなった。

例えるなら、小学生が先生に足し算を教えているような感覚。

 

しかし、このことに気付けてよかった。

僕は、カナダに来ることがなかったら、日本でまあまあの会社に入り、そこが10年位で潰れ、露頭に迷っていた未来が見える。

 

話が飛んだ、今日は人材のコモディティ化についてお話をしたいと思う。

 

コモディティとは何か。

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コモディティとは何か。

スペックが明確に言語化できるものである。

言い換えるなら、無個性なものとも言おうか。

 

例えば、例えが少し失礼かもしれないが、

スーパーで売っている牛乳のようなものである。

値段がそんなに変わらず味もそこまで違いがない。

(少なくても僕にはそのように感じられる)

 

はなまるうどん丸亀製麺でもいい。

(誤解しないで欲しい。つまり牛乳もうどん屋さんの例も、両方共僕にとってコモディティに見えるということだ。僕は両方好きだ。両方美味しい。)

 

人間は、ある一定のレベルを持っているものに対してはあまりこだわりをもたない。

言い換えるなら、違いを認識できない。

(一般人は2万のテニスラケットと3万のテニスラケットの違いが認識できない。)

 

この違いが認識できないものをコモディティと呼ぶ。

 

コモディティになるとは恐ろしいことである。

コモディティ化した製品というものは価格競争にまきこまれるからである。

需要量に対して供給量があまりにも大きくなりすぎるため。

 

現代、日本の製品や工場が国際的競争力をなくしているのは、この製品のコモディティ化が顕著になってきたからだ。

つまり、日本で作った製品も発展途上国で作った製品も大半の人間にとっては明らかな差異があるものではなくなったということである。

 

グローバルな市場で価格競争に巻き込まれることは日本にとって負けを意味する。

(為替差があるのでどうやっても勝てない。)

 

別にグローバルに限らず、コモディティ化すると値段競争に巻き込まれる。

牛丼大手三社は数年前値下げ競争をしていたのを覚えている人はいるだろうか。

あれは、顧客にとって牛丼がコモディティ製品と受け取られていたことを意味する。

 

本当にコモディティは恐ろしい。

 

 

さて、ここからが本題。

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現在以前なら専門家と呼ばれる人材にコモディティ化が起こりつつあるのではないかという話である。

言い方を変えるとある特殊技能を持った人物が供給過多になっているというお話である。

 

するとどうなるか。

コモディティ化した商品と同じ道をたどることになる。

価格競争に巻き込まれてしまうのだ。

 

これからの時代、専門家は昔と違い割の合わない職業になってくる。

(一つは今行ったコモディティ化 そして、あとはAIによって)

 

専門家になるまでに大きなコストが掛かる。

昔は、そのコストを上回るリターンがあった。

しかし、現代では労力の割にリターンが少なくなっている。

(弁護士なんてもう悲惨である。人も増えるのみならずアメリカではAIが仕事を食い始めている)

 

弁護士の例以外でもいままで労働市場で評価されてきた人材もコモディティ化している。

 

例えば、学生の間で人気な英語

一昔前は英語が喋れることが就職においてとても評価されていた。

しかし、今の時代殆どの人間がTOEICを受ける。

ある程度の高得点では見向きもされなくなる。

 

 

まとめに入る

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上記例から僕が考えることは

「客観的に評価できる能力(資格)というのはある程度まで行くと買い叩かれる現実がそこにはあるよということである。」

 

そして、

「親世代は親世代の常識で進路をアドバイスするが、時代遅れなものも少なからずある。」(最初の方のまとめ)

 

このふたつのことである。

 

今は、時代の変革期だ。

正直今回文章を書いてみて、自分の理解の甘いところがある。

(特に最後の方)

おかしいなと思うところがあったらコメントお願いします。